認知症と妄想性障害の違いを考える

ひとりごと

ひとり暮らしを始めて☞初めて友達が我が家に遊びに来てくれました😃😃😃

普段ストックしている食料を解凍し(笑)
ごはんをいっぱい食べて、お酒を飲んで、
カーペットでゴロゴロしました( *´艸`)

そのまま寝ちゃうくらい、
気を許せる時間(*´▽`*)

「こういう時間、いいよね~」

そんなふうに笑っていた夜でした。

でも、夜が深くなってきたころ、ふと話題が変わりました。

親のこと。
介護のこと。
これからのこと。

50代になると、
楽しい話の途中に急に現実が割り込んできます。

若いころなら、
恋愛とか仕事とか旅行の話だったのに💦💦(笑)

気づけば親の介護、施設、認定、病院の話。

人生、話題の切り替わりが急すぎます。


友達の一言が、ずっと引っかかった

そのとき、友達がぽろっと言いました。

「認知症は認定おりるのに、妄想はおりないんだよね」

最初は、正直よく意味が分かりませんでした。妄想ってなに????そんな言葉あるんだ。??

でも、話を聞けば聞くほど、
胸の中にモヤっとしたものが残りました。

認知症と同じような症状で家族が困っているのに。
同じように生活が大変になっているのに。

どうして扱いが違うんだろう。

どうして、しんどさが同じように見てもらえないんだろう。

そんな疑問が残りました。


認知症と妄想性障害では、見られる部分が違う・・・

あとから自分なりに調べたり、話を整理してみて分かったのは、
この違いは単純に「病気が重い・軽い」という話ではないということでした。

大きいのは、
制度がどこを見て判断するか
という部分です。

いわゆる認知症の場合、
記憶や判断力に影響が出て、日常生活そのものが崩れやすくなります。

たとえば、

  • ごはんを食べたか分からなくなる
  • 薬の管理ができなくなる
  • お金の計算が難しくなる
  • 火の始末が心配になる
  • 同じことを何度も聞く

こうしたことが増えると、
「生活に介助が必要」と判断されやすくなります。

つまり、制度の目から見ると、
できないことが見えやすい
のだと思います。


妄想がある場合は、生活だけ見ると「できている」に見えやすい

一方で、妄想性障害のような状態は、
少し違って見えることがあります。

たとえば、

  • 誰かに監視されていると思う
  • 家族を疑う
  • 近所の人に悪口を言われていると思い込む
  • お金を盗られたと思う
  • 誰かが自分を陥れようとしていると感じる

こういう思い込みが強く出ていたとしても、
食事、着替え、トイレ、移動などは普通にできることがあります。

すると、生活動作だけを見ると、

「できていますね」

と判断されやすい。

でも、家族からすると全然「大丈夫」ではありません。

疑われる。
責められる。
説明しても伝わらない。
近所トラブルになる。
家の中の空気がずっと張りつめる。

身体は元気そうに見えるのに、
家族の心がどんどん削られていく。

ここが、本当にしんどいところだと思いました。


「自分で気づけるかどうか」も大きな違い

それは、
本人が自分の状態に気づけるかどうか
です。

認知症の場合、初期の段階では、

「最近ちょっと忘れっぽいかも」
「前よりできないことが増えたかも」

と、本人が違和感を持つことがあります。

もちろん人によって違いますが、
家族に相談したり、病院につながったりするきっかけになることもあります。

でも、妄想の場合は難しい。

「監視されている」
「家族が自分を困らせている」
「誰かが悪意を持っている」

本人にとっては、それが“現実そのもの”になっていることがあります。

だから、

「自分がおかしいのかもしれない」

という発想になりにくい。

助けを求めるスタート地点に、
そもそも立てないことがある。

これは、家族にとってもかなり苦しいことだと思います。


制度は「生活できるか」を見る。家族は「どれだけしんどいか」を感じている

ここに、大きなズレがあると感じました。

制度は、
どれだけ日常生活に介助が必要か
を見ます。

でも家族は、
どれだけ一緒にいることがしんどいか
を感じています。

この差が、とても大きい。

食事ができる。
歩ける。
着替えられる。
買い物にも行ける。

そう見えると、制度上は「自立している」と判断されやすい。

でも、家族の中では、

毎日疑われる。
責められる。
話が通じない。
外でトラブルを起こさないか不安になる。
本人を病院につなげることすら難しい。

そんな現実があります。

「生活できている」と
「家族が安心して暮らせる」は、
同じではないんですよね。

ここ、制度の書類だけ見ていたら抜け落ちやすい部分だと思いました。


友達の言葉が、本質すぎた

友達が言った言葉が、帰ったあとも頭から離れませんでした。

「身体は元気なのに、一番しんどい部分は見てもらえないんだよね」

これ、本当に本質だと思いました。

介護というと、
歩けない、食べられない、着替えられない、
そういう目に見える大変さを想像しがちです。

もちろん、それも本当に大変です。

でも、介護のしんどさはそれだけじゃない。

目に見えない不安。
会話が通じない苦しさ。
本人が困っている自覚を持てない難しさ。
家族だけが追い詰められていく孤独感。

そういうものも、確かに存在しています。

でも、それはなかなか点数にならない。
制度の中で見えにくい。

そこが、たまらなく苦しいところなのだと思いました。


家族だけで抱えないことが大事

じゃあ、どうしたらいいのか。

正直、完璧な解決策は簡単には見つかりません。

でも、家族だけで抱え込まないことは本当に大切だと思います。

私も気になって調べてみたところ、
高齢の家族の様子が気になるときは、まず 地域包括支援センター や、市区町村の 高齢者福祉課・介護保険課 に相談する方法があると分かりました。

地域包括支援センターは、高齢者の暮らしや介護、医療、福祉について相談できる窓口です。
いきなり病院や介護サービスを決める場所というより、
「どこに相談したらいいか分からない」段階でも相談できる入口のような場所なのだと思いました。

必要に応じて
かかりつけ医、精神科・心療内科、認知症疾患医療センター、保健所などに
つながる場合もあります。

そのときは、
「いつ頃から様子が変わったのか」
「どんな言動があるのか」
「家族が何に困っているのか」
を、簡単にメモしておくと相談しやすいと思います。

また、家族だけで説得しようとしないことも大切です。
特に妄想のような言動がある場合、
家族が真正面から否定しても、かえって本人を追い詰めたり、
関係がこじれてしまうこともあります。

だからこそ、第三者に間に入ってもらう。
支援サービスの利用方法を知る。
定期的に相談しながら、生活環境や家族の負担を少しずつ見直していく。

一度で解決しようとしなくてもいい。
家族だけで抱えないことが、まず大事なのだと思いました。

私自身、母が倒れたときはまだ10代で、国の制度に助けてもらい区役所に通う毎日でした。

当時は、今のように相談しやすい雰囲気ではなく、対応の冷たさに傷ついたこともありました。
正直、その経験は少しトラウマのように残っています。

でも今は、昔よりも相談しやすい環境が少しずつ整ってきているのだと思います。

「相談するほどではない」
「人に助けてもらう必要はない」
そう思う気持ちも、よく分かります。

でも、すぐに何かを決めなくても、
どんな制度があるのかを聞くだけでもいい。
今使うかどうかは別として、選択肢を知っておくだけでも、少し気持ちが変わることがあると思います。


ただ楽しかっただけの夜ではなく、これからの自分に必要なことを少し知る夜にもなりました。

友達の言葉を聞いてから、
少しだけ世の中の見え方が変わりました。

介護って、
目に見えるものだけじゃない。

身体が動くから大丈夫。
ごはんが食べられるから大丈夫。
一人で歩けるから大丈夫。

そう簡単には言えないんだと思いました。

制度に乗るしんどさもある。
でも、制度に乗らないしんどさもある。

そして、その見えない部分で苦しんでいる家族がいる。

同じようにモヤっとしている人がいたら、
この文章が少しでも気持ちの整理のヒントになればいいなと思います。


まとめ|介護のしんどさは、点数だけでは測れない

今回、友達との会話から感じたのは、
介護の大変さは「できる・できない」だけでは測れないということです。

生活動作ができていても、
家族の心が限界に近いことはあります。

本人が困っている自覚を持てないことで、
相談や受診につながりにくいこともあります。

そして、そのしんどさは外から見えにくい。

だからこそ、
家族だけで抱え込まないこと。
早めに相談先につながること。
記録を残しておくこと。

この3つは、とても大事だと思いました。

介護は、目に見えるものだけじゃない。

そのことを、あの日の夜に教えてもらった気がします。

いろいろ考える夜にもなりましたが、
友達が遊びに来てくれた時間は、やっぱり楽しいものでした。                次の記事では、そのときに
「わたしも欲しい〜!」と言ってくれた、
一人暮らしで買ってよかったものを紹介します♪♬




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